北齋漫畫の予習&復習

観てきました。

とりあえず顔が良かった事だけお伝えします。

そして熱意が伝わってくる演目でした。

 

そんな顔がよくて熱意がある横山裕さんがファンに向けて度々言う「予習してきてね」

 

でも具体的に何を覚えていけばいいの?

 

となる方もいたりいなかったりするかなと思い、今回は観る前の予習と観た後の復習になりそうな事をざっくり箇条書きにしてみました。

*戯曲「北齋漫畫」はフィクションも混じっているので全て史実通りではない

*割と知らなくてもいい予備知識的なのもあります

*ネット知識の寄せ集めですがあしからず!

 

 

 

 

浮世絵とは

そもそも浮世絵ってなんなんだ

 

 

・風俗を描く風俗画でその題材は、美人画、役者絵、芝居絵、名所絵、春画といったものから多岐にわたる。

 

・肉筆画は一点ものだが、木版画が採用されてからは今で言うコピーが出来た。版元がいて、絵師、彫師、摺師というシステムで構成されていた

 

簡単に言うなら

版元(出版社)、絵師(イラストを描く人)、彫師(印刷する為のデータ作る人)、摺師(印刷業者)のような感じかな…?

 

・絵師(アートディレクター的な)である北斎はこだわりが強く、彫師や摺師にも無理難題とも言える要求をしていたよ

 

・浮世絵は庶民の娯楽作品とされてて、昔も現代日本でもまだまだ評価は高くない。昔も浮世絵師は伝統芸術師ほど尊敬はされていなかったけど人気はあって、今では重要な歴史史料になっている

 

・浮世絵は時代の息づかいを見事に絵に表現していて、庶民の請託娯楽を盛り込み溌剌とした江戸期の人生謳歌を描いていたそう

 

美人画や人気役者の春画は庶民が競って購入するところとなり、ファッショナブルで斬新なブームを巻き起こしていた

 

・斬新な切り口で絵を描き続けた北斎を生前から庶民や将軍さえも評価していたよ

 

・江戸期は階級制度によって厳しく規制され、既成の流派や画壇に属さない芸術家は皆「奇人」とされていた。北斎は、収入があっても金銭や権威に興味を持たなかったり、当時はタブーだったいろんな流派を渡り歩いたりと奇人を体現する人生だった

 

 

人物紹介 

 

葛飾北斎

 

1760年10月31日–1849年5月10日

没88歳(昔は数え年なので90歳)

 

〈ざっくり年表〉

 

 

4歳で幕府御用鏡師、中島伊勢の養子になる。

この頃から好んで写生をする

14歳で木彫り職人に弟子入り

19歳で当時有名だった役者絵師、勝川春章の元に入門

20歳で浮世絵の世界に登場するも、好奇心旺盛な性格から師の模倣以外にも内緒で狩野派や洋画を学び破門される

生活に窮し、唐辛子売りなどの副業をしつつも餓死しても絵の仕事はやり通してみせると、朝から晩まで筆をとった

30代で浮世絵画家とは一線を隠した独自様式で評判になるも、貧乏は続き北斎は自分の描きたい絵ではなく内職として手当たり次第色々な絵を描いた。

40代、挿絵や肉筆画、名所絵や戯画、美人画など多彩な表現を用い作品を発表していた

50代、代表作となる「北齋漫畫」を刊行

60代、富嶽三十六景など版画を連発、春画の名作「蛸と海女」もこの頃

70代〜晩年

 

北斎が最後に手がけたのは肉筆画で、当時の風俗ではなく、和漢の故事や宗教に基づく歴史画や物語画、あるいは動植物にモチーフを求めていた。また、独自の洋画風表現方法にチャレンジするなど、旺盛な制作意欲を持ち続けた

 

〈性格や逸話など〉

 

 

北斎は酒もタバコもしなかった

 

北斎は金銭に無頓着であり、生涯貧しかった

 

・身長が高い。180cmあったとされている

 

葛飾北斎の「葛飾」は、出生地である「すみだ」を含む地域が、武蔵国葛飾郡であったことからという一説

 

・改号(絵師としての名前を変える)こと30回、引っ越しすること93回。片付けるのが面倒で引っ越しを繰り返したといわれている(なおお金はずっとない)。100回を目標にしていたらしい。江戸は火事が多かった為、庶民の引っ越しは頻繁であったが、それでも北斎の引っ越しは多い。名前には「卍」なんてものも。

 

曲亭馬琴と仲が良く、挿絵なども書いていた。(馬琴の欄に詳細)

 

北斎も、晩年北斎と共に過ごした娘のお栄(後述)も生活能力は低く、自炊をしなかった。買ってきたものを食べゴミを放置していた為部屋が汚れるたびに引っ越しをしていたという

 

・代表作には富嶽三十六景や、春画(アダルティな絵)など。昔は享保の改革春画が取り締まられ絵師が逮捕されたりしたので裏でこっそり隠号を使って発表した。ペンネームは「鉄棒ぬらぬら」「紫色雁高」等

 

日蓮宗系の北辰妙見菩薩を信仰していた。日蓮宗は「何妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」と題目を唱える。北斎の名前もここに関係している

 

北斎は行儀作法を好まず、そっけない態度を取る人だった。ただ横柄と言うわけではなく、形にこだわらないタイプ。気位が高く、富や権力でも動かないことがしばしば。

 

北斎は一生を通して画法を研究し、絵に対する情熱・向上心を持ち続けた。同じ人物が描いたと思えないほど多彩な手法を用いている。

70歳以前までに描いた絵は取るに足らないもので、73歳にしてようやく動植物の骨格や出生を悟ることができた。そして、80歳ではさらに成長し、90歳で絵の奥意を極め、100歳で神妙の域に到達し、百何十歳になれば1点1格が生きているようになるだろうと語っている。

 

・西洋に輸出された日本陶器の包装紙に『北斎漫画』が使われ、そのデッサンの秀逸さに驚嘆した仏人の版画家が画家仲間に教え、そこから空前のジャポニスム=日本ブームが広まったという

 

・当時の浮世絵師にとって風景はあくまでも人物の背景に過ぎなかったが、北斎はオランダの風景版画に感銘を受け、“風景そのもの”を味わうことを見出す

 

北斎は人の度肝を抜くことを楽しみにしていた節がある。縁日の余興で120畳(200平方メートル)の布にダルマを描いて人々を驚かせたり、小さな米一粒に雀2羽を描いてみせたり、クイズを画中に入れたり、果てには11代将軍家斉の御前で鶏の足の裏に朱肉を付け紙上を走らせ“紅葉なり”と言い放ったりと、やれることは全てやったという感じ

 

・70歳を過ぎて刊行された『富嶽三十六景』。これは50代前半に初めて旅に出た際に、各地から眺めた霊峰・富士にいたく感動し、その後何年も構図を練りに練って、あらゆる角度から富士を描き切ったもの。画中のどこに富士を配置すべきか計算し尽くされている。同時に、作中には富士の他にも庶民の生活が丁寧に描かれ、江戸っ子は富士と自分たちのツーショットに歓喜し、“北斎と言えば富士、富士と言えば北斎”と称賛した

 

・79歳の時には火災にあい、10代の頃から70年も描き溜めてきた全ての写生帳を失う悲劇に遭遇。この時北斎は一本の絵筆を握り締め「だが、わたしにはまだこの筆が残っている」と気丈に語ったという

 

・火災の教訓からか、北斎は自分が培った画法を後世の若い画家に伝える為、絵の具の使い方や遠近法についてまとめた『絵本彩色通』や手本集『初心画鑑』を描き残した。この時すでに87歳。童心に戻ってこどもとずっとお絵かきしてたエピソードもあるよ

 

嘉永2年4月18日(グレゴリオ暦では上記)、北斎は卒寿(90歳)にて臨終を迎えた。そのときの様子は次のように書き残されている。

 

翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい 暫くして更に言いて曰く

天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし と言吃りて死す

 

これは、「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」との意味である。

 

辞世の句は、

 

人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原

その意、「人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか」というものであった。

 

(ほぼWikipediaより抜粋)

 

北斎の絵は生前から海外でも知られていた。ヨーロッパの印象派誕生のきっかけにもなっている。

 

・レオナルドダヴィンチも北斎の影響を受けたといい、北斎も常に自然に目を向け、的確に描き表していた

 

〈晩年の北斎宅〉

 

画像

http://www.photo-make.jp/hm_2/hokusai_kataku.html

北斎仮宅之図では、弟子が北斎の室内の状況を書いている。晩年の北斎はこたつ布団を被り畳の上で絵を描いている。杉戸には「画帳扇面お断り 三浦屋八右衛門」の貼り紙、柱にみかん箱を打ち付け仏壇としている。

 

〈副業唐辛子売りについて〉

 

唐辛子売りの仕事は独特で、全身真っ赤な服を着て6尺(約180cm)もある自分の体より大きなハリボテの唐辛子を背負って売り歩くのが特徴。 この巨大唐辛子のなかには小袋に入った粉唐辛子が入っていて、「とんとん唐辛子、ひりりと辛いが山椒の粉、すはすは辛いが胡椒の粉、七味唐辛子~」と言いながら売り歩くそう。

 

 

 

葛飾応為】 

かつしか-おうい

葛飾北斎の三女で、名前はお栄

 

〈人生〉

一度、南沢等明と結婚しているも、父親譲りの画才と性格から、等明の絵にダメ出しして笑った為離縁された。

北斎の所に出戻った後は、晩年の北斎と共に住み、作画や北斎の制作助手をした。

晩年は消息不明である。

 

〈人柄など〉

・応為の画号は、北斎が娘を「おーい、おーい」と呼んだのでそれをそのまま号にしたと言われている

 

・性格は父親に似てやや慎みに欠け、男のような気質で任侠風を好み、生活の貧しさを苦とする事はなかった

 

・絵の他にも占いに凝ったり、小さな豆人形を作り売りして小銭を儲けたりしていた

 

・応為は北斎と違って煙草と酒を嗜んだとされている

 

北斎の作品の中には、実は応為作、あるいは共作が相当数あると考えられている

 

 

・色の使い方が鮮やかで、美人画を得意とした

 

 

 

曲亭馬琴

 

1767年7月4日–1848年12月1日

 

滝沢馬琴などの名でも知られる。通称は佐七郎・瑣吉(さきち)など。

 

〈人生〉

旗本・松平信成の用人・滝沢運兵衛興義の5男として生まれた。

幼い頃より絵草紙などの文芸に親しみ7歳で俳句を詠んだ。

松平家を出た後、武家の渡り奉行を転々とした。

24歳の時に山東京伝を訪れ弟子入りを乞い、翌年に戯作者として出発。

その後、版元・蔦屋重三郎に見込まれ武士としての名を捨てた。

27歳の馬琴は蔦屋や京伝に勧められ、履物商「伊勢谷」を営む会田家の未亡人お百の婿となる。

しかし結婚は生活安定の為であり仕事には興味を示さなかった。義母の死後は履物商はやめ本格的に文筆行に打ち込んだ。

晩年には右目が見えなくなり、息子の妻のお路が口述筆記をしていた。

 

〈人柄など〉

・非常に几帳面で、規則正しい生活を送っていた。毎日はほぼ同じスケジュールで行動していた。

 

北斎は馬琴の作品に最も多く挿絵を描いた。2人はかなり親しく、北斎が馬琴宅に居候していた時期もある。馬琴はこだわりが強く、下絵の指示も厳しいものであった。しかし北斎は凝り性で自信家だった為、馬琴の指示には従わず2人はしばしば衝突した。

北斎は指示のない狐が現れたり、人物の場所を指定すると必ず反対側に描いたりした。

その為馬琴は、あえて描いて欲しい方と反対側に人物を描き、出来上がりを理想通りにするなどある程度北斎の扱い方を心得ていた。

 

喧嘩が絶えないようではあったが、馬琴は北斎の画力を認めており、馬琴の書簡には北斎を賞賛する記述も多くあった。

また北斎も馬琴を高く評価しており、お互いがお互いの居ないところで称え尊敬し合っていた。いわゆる似た者同士



 

 

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🗻北齋トピ🗻

 

 

 

北斎の生きた時代】

 

 

・徳川家は約250年間にわたり国を治め、この間平和な時代が続き、鎖国政策が取られた。

海外に目を向けない日本人が多い中で北斎は早い段階から海外の画法にも興味を示していた

 

・18世紀中頃までに、江戸を新たな日本の都とした武士による幕府の統治はどんどん確立され、厳格な身分制度が確立し、日本のは主に4つの身分に分けられた。

 

身分制度の最上位に君臨していたのが特権階級、すなわち武士。武士に次ぐ身分を与えられたのが米を作る農民で、それに次ぐ身分を与えられたのが商品を作り出す職人であった。

最下位の身分を与えられたのが、商人や取引人であった。

 

・芸術家、遊女、および役者はこの社会の身分制度の外に置かれた。彼らは『非人』(人とは見なされない人々)と呼ばれた。

 

 

・18世紀末には多くの裕福な商人は、質素な生活を送るようになったが、やはり歌舞伎座遊郭などは、当時の人々を惹き付けてやまなかった

 

・日常から解き放たれたこうした『浮世』を監視する目的で、幕府は文学、版画、挿絵付き書物、俳句、歌舞伎座、服装、遊郭など、多彩な娯楽を規制する法律を適用した。

 

・特に、寛政期の政治家・松平定信が行った寛政の改革は、当時すでに弱体化傾向にあった徳川幕府の権威を復活させるために文化に対する厳しい検閲制度が実施された。

 

・そんな中でも理想的な女性美を追い求める町の男たちが、華やかな衣装に身を包んだ美しい女性の姿を描くよう浮世絵師たちにさかんに注文を出した。

 

 

・幕府による贅沢や芸術の規制が厳しくなる中でも、北齋は自分の追い求める理想を描き続けた

 

春画もたびたび出版禁止になっていた。享保の改革で好色本が禁止されたのを皮切りに、寛政の改革天保の改革と幕府による改革が行われるたびに発禁となり、店頭販売も自粛されました。しかし、そこはタフな江戸の人々。規制の目をかいくぐって制作を続け、貸本屋が各家を行商することで春画は楽しまれ続けた

 

・また、発禁になって表に出なかったからこそ、規制にとらわれない豪華な極彩色の作品もつくることができ、浮世絵技術をいかんなく発揮できる場となり、バラエティ豊かな春画世界が生まれることになった

 

北斎春画は特に色遣いが鮮やかだった

 

北斎と関係のあった絵師たち】

 

劇中に何人かババッと名前が出てくるので簡単にご紹介しておきます

六大浮世絵師と呼ばれているのが、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿東洲斎写楽葛飾北斎歌川広重、です。

 

喜多川歌麿

 

歌麿美人画を描かせて並ぶものがいないと言われていた。大首絵と言われる半身から上のアップの美人画が多く、表情がわかりやすいと人気が出た

 

寛政の改革後も様々な表現そ模索していたが、1804年に風紀取締の処分を受け、その2年後にこの世を去った

 

東洲斎写楽

 

・僅か1年に140もの作品を残して姿を消した

 

・役者絵を描いていたが、顔の一部を誇張して描いていたせいでモデルの役者からは敬遠されていた

 

・しかし江戸庶民は誇張された役者の顔に親しみを感じ、絶大な人気を誇った。写楽に取り上げてもらえない役者は役者ではないとまで言われるほど

 

 

歌麿写楽の違いは「個性故の存在感」だった。最初は役者も歌麿に描いてもらうことを望み、写楽を敬遠していたが後には個性的に描く写楽に描いてもらうことを競ったという

 

歌川広重

 

東海道五十三次などの代表作がある

 

・役者絵や美人画から始めたが、師の没後は風景画を主に作成した

 

・青色の表現が美しく、ヒロシゲブルーと海外では高く評価されている

 

 

北斎と同じく西洋画から浮世絵に遠近法を取り入れた先駆者。立体感のある絵で人気を博した

 

・広重も北斎も風景画を描いていて、広重のものはどこが劇画チックだったり、北斎のものはデザイン化されていたりと、ただ風景を切り取るだけではなかった。その個性にあふれた作品で江戸の人々を楽しませていた

 

 

蔦屋重三郎


・江戸時代の版元(出版元)であり、多くの芸術家を世に送り出した。かねてより付き合いのあった狂歌師や絵師を集め、これまでにない斬新な企画を統括し洒落本や狂歌本などで多くのヒット作を生み出した


喜多川歌麿を世に送り、東洲斎写楽を育て、曲亭馬琴を見出すなど、才能を見極める目を持った人物だった


・2代目を継いだ勇助が北斎の「潮来絶句集」を出版するも、装丁が華美であると処罰を受けた



 

これから見られる方は難しいことは気にせずぜひ楽しんできてください!

セリフの言葉は昔の時代の言い回しが多いので、少し難しいかもしれませんが、疑問に思ったところは後からググりましょう!(雑)

 

 

 

 

 

↓↓↓↓↓以下ネタバレ有りの余談↓↓↓↓↓

 

 

 ネタバレ込みの余談と感想

 

 

 

・芸術が規制されまくってる世の中で自由に絵を描き続けた北斎の人柄が、周囲の絵師の批判や反骨精神というセリフに繋がったのかなと

 

・唐辛子売りの歌や米粒の二羽のすずめなんかは劇中にも登場したけど、お茶目で大変可愛い

 

・二幕で北斎が蛸と海女を描くときに話しているセリフは、実際に蛸と海女の絵の中にも書き写されている。(蛸と海女のWikiに載ってるよ!)

 

・晩年の家の様子は、北斎仮宅之図を忠実に再現していました

 

・お直や、応為と馬琴の関係などフィクションも多いけど、もし本当にそうだったら…みたいな感じで史実の逸話と繋がるようにうまく出来てるお話だな〜と思いました!馬琴と北斎のコンビはこの舞台でも史実でも仲良しで可愛い

 

 

 

〈参考にしたネットページ一覧〉

 

Wikipedia

https://edo-g.com/blog/2015/11/shunga.html/2

http://chushingura.biz/p_nihonsi/episodo/151_200/154_01.htm

https://www.wochikochi.jp/special/2011/10/hoksai-edo.php

http://www.tt.rim.or.jp/~haruto/ukiyoe/eshi/hokusai2.html

https://intojapanwaraku.com/jpart/1100/amp/

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/hokusai.html

 

 

ありがとうございました!